Dec 20, 2008
埼玉の中小病院の小児科医の求人情報
小児科医の不足が大きな問題となっていますが、東京周辺のベッドタウンである埼玉県では小児科医の求人情報をたくさん見ることができます。特に病院の医師求人の場合には、定期的な当直以外にも、救急患者が発生したときに呼び出しているのが特徴です。特に産婦人科も併設されている病院の場合、新生児患者が多いのも特徴といえます。先月末、看護師の求人をしたが、多くの応募者があり、すぐに5人の看護師を採用することができた。今まで私は、病院の人手が不足していたが、新人看護師の役割のおかげで、仕事がスムーズに流れるようになった。病院を訪問して患者のためにも早く看護師求人をしていた、今では反省している。
福島第1原発事故で避難している子どもたちが6日、避難先の福島県内各地で入学式を迎えた。放射線への不安を抱えながら、古里から遠く離れた地でそれぞれの春を迎えた。
屋内退避圏にある田村市都路町の古道小と岩井沢小の二つの小学校の児童は全員が、昨年廃校になった同市船引町の旧石森小に移った。
新1年生は2校合わせて20人。合同の入学式では、久しぶりに顔を合わせた2校の在校生計約110人が新入生を迎え、両校がそれぞれ校歌を歌った。
古道小の安瀬一正校長は「一緒に楽しく勉強しよう」と呼び掛け、同小に入学する朝田萌衣さん(6)は「みんなと一緒で、結構いいかも」と話した。
2校は各学年1クラスの合同学級を編成し、授業は両校の教諭で受け持つ。児童は田村市や三春町、郡山市などの避難先からスクールバスで通う。
いわき市では、小中学校121校のうち津波で校舎が使えない4校と、屋内退避圏に入っている3校が、市文化センターで合同の「入学を祝う会」を開いた。
小学校の「祝う会」には、黄色い帽子をかぶった4校の75人が出席。永崎小6年の佐藤大哉君(11)が「学校はしばらく使えないけれど、力を合わせて頑張ろう」と新入生を迎えた。
津波で長女(4)を亡くした鈴木政貴さん(33)は長男海翔君(6)が豊間小に入学。「知っている友人が一人もいない学校に通わせるのは心配だが、長女の分まで強く生きてほしい」と語った。
福島市の荒井小では浪江町から67人、南相馬市から6人の計73人が転入し、新学期が始まった。一時転入した浪江小4年三瓶萌美さん(9)は「地震は怖かったけど、学校が始まったので、友達とも会えてうれしい」と話した。
東日本大震災で、山形市七日町にある長源寺の住職葦原正憲さん(70)が、乳幼児を連れて避難中の被災者に、寺で風呂や昼食を提供している。
葦原さんが支援しているのは、山形市総合スポーツセンターに避難している福島県浜通り地方の住民ら。集団生活のつらさに耐える姿を見て何かできないかと考え、気分転換の場として、3月24日から寺でもてなすことにした。
3月下旬に寺を訪れた福島県新地町の主婦宮本ヨシ子さん(63)は、家族4人で避難生活を送る。孫で生後2カ月の大夢(ひろむ)ちゃんは避難生活で入浴できず、お尻がかぶれ、手当てを受けた。宮本さんは葦原さんの家族が作った昼食を味わいながら「本当に助かります」と喜んだ。
能登半島地震や新潟県中越沖地震でも支援活動に携わったという葦原さんは「押しつけにならないよう他人を支えるのは難しいが、淡々と取り組む」と話す。
仙台市が東日本大震災の被災者向けに設けている電話相談窓口に連日、苦境を訴える市民の声が殺到している。津波で家を失った人が、がれきの撤去や支援制度を問い合わせるケースが目立つ。市は「未曽有の災害で、生活再建の悩みはしばらく続く」とみて、相談業務を当面続ける。
市庁舎8階の一室にある電話相談窓口。6日午前10時すぎ、7台の電話が次々と鳴り、担当者が対応に追われていた。3月15日の設置以来、相談件数は1万2000件を超えた。連日、午前中はつながりにくい状態だ。
市によると、設置当初は水道やガスの復旧状況を尋ねる電話が多かった。震災直後の混乱状況を反映し、行方不明者を捜す相談も相次いだ。
4月に入ってから目立つのは、罹災(りさい)証明書の発行手続きなど生活再建に関する相談だ。「お金がない」と苦境を訴える人もいる。津波で水をかぶった乗用車の撤去の問い合わせも続いている。
市は今月中旬以降、職員が避難所に出向く巡回相談も検討している。広聴相談課の村上明課長は「1人で抱え込むのではなく、市に電話してもらい生活再建の一助にしてほしい」と話している。
仙台市被災者支援情報ダイヤルは022(214)3805。受付時間は午前9時〜午後5時。
仙台市宮城野区蒲生地区で震災発生時、地元の土建業の男性が、住民ら30人余りをダンプカーで運び、救助していた。会社周辺と避難所の中野小を往復しているうちに津波は背後まで迫ったが、必死の運転でJR中野栄駅付近に逃れることができた。救助された住民は「ダンプに乗せてもらえなかったら、確実に津波にのまれていた」と感謝している。
男性は泉区の土建業小野喜満さん(41)。実家と会社は蒲生地区にあり、3月11日は会社近くの現場で作業中に地震に遭い、大津波警報のサイレンを聞いた。
すぐに路上にいた高齢者らを2トンダンプの荷台に乗せ、南西に約500メートル離れた中野小に搬送。おいの小野亮輔さん(22)ら若い住民の力も借りて、2往復で約10人を学校へ送り届けた。
もう1往復しようと、会社付近に戻ったころ、津波が蒲生干潟の方から防波堤を越えて来た。周辺の家屋は次々と崩れ、中野小に向かう道も刻々と水位が上がっていた。
小野さんは通れる道を選び、無我夢中でハンドルを操作。津波に追われながら、知り合いの高齢者や路肩を走って逃げていた配送会社の従業員13人を荷台に乗せ、西側に向かった。
中野栄駅近くで歩道橋が見えると、ダンプを乗り捨て、全員で駆け上がった。津波はぎりぎりまで迫って、徐々に引いていった。
歩道橋で水位が下がるのを待つ間、雪が降ってきた。小野さんは寒さの中でも、「生きている」と実感したという。
小野さんの知り合いで一緒に歩道橋に上り、難を逃れた主婦小野安子さん(69)は「喜満さんが来てくれなかったら死んでいた。感謝しきれない」と語る。
小野喜満さんの家族は無事だったが、実家と会社は津波に流された。ほぼ毎日、仕事の再開を目指して道具の回収などに蒲生を訪れるが、「人を救えたのは良かったけど、蒲生に来るたび、もっと助けられなかったのか、と考えてしまう」と話している。(亀山貴裕)
WriteBacks
writeback message: Ready to post a comment.