Jan 25, 2010
不動産投資が流行しています。
不動産投資を中古ワンルームで始まるサラリーマンが多い。この理由は何だろうか。個人的には社会保険の未来が不透明で、不動産投資のオナニーしているのではないかと考えるのである。今まで働いてあげれば、そこそこの年金を受けることができた。それが今後はなくなりそうなのだ。他人を目標とすることができないということだ。父がマンション事業をしている。 15年ほど前に1棟マンションを購入してマンション事業を始めたのである。その時に借りたアパートローンがもう返済する時期が来た。実家に住むたびに、父がその話を嬉しそうにしているのだ。次の不動産投資は考えていないが、支払をした暁には何かプレゼントしようと考えている。
【日米開戦 70年目の検証】兵士の証言
■横山岳夫氏 原田要氏 前田武氏 司会・門田隆将氏
今年は日米開戦70周年で大正100年でもある。先の大戦に臨んだ兵士の多くは大正生まれで、戦場を生き抜き、戦後は焼け跡から日本を立て直した「復興」の立役者でもある。私たちの前に再び「復興」という重い課題がのしかかっている今、大正世代の証言や生きざまに目を向けるべきではないだろうか。あすは終戦の日。「太平洋戦争 最後の証言」の著者、門田隆将氏の司会で最前線の戦場に臨んだ元兵士が戦争と後世への思いを語った。
■宣戦布告待った「真珠湾」
門田 今年は日米開戦70周年です。今日は、先の大戦の当事者にお集まりいただきましたが、まず真珠湾攻撃に臨んだ前田さんにうかがいます。真珠湾の攻撃を初めて告げられたのはいつだったのでしょうか。
前田 舞鶴航空隊から転勤で鹿児島に配属されたのは真珠湾攻撃の3カ月前。ここで私は鹿児島湾で超低空から雷撃する訓練を連日続けました。海面わずか10メートルから魚雷を落とす。高度はそれ以上でも以下でもダメという難しい訓練でした。
門田 真珠湾攻撃と知っての訓練だったのですか。
前田 まだ誰も真珠湾とは聞かされていません。
門田 原田さんはいつ告げられたのですか。
原田 昭和16年11月の終わりです。択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に連合艦隊が集結、そこで初めて各艦長らに明かされました。「米国と外交交渉をしておるが、うまくまとまらない場合、攻撃する」と米国との開戦を知らされ、驚きました。
門田 真珠湾攻撃の時、横山さんはどこにおられましたか。
横山 戦艦「日向(ひゅうが)」に乗船して小笠原付近にいました。真珠湾攻撃は事前に全く知らず、ラジオで知りました。先の見通しなど全然考えてなかったから特に感慨などなかったですよ。
前田 どこで、何をするとも告げられぬまま出航し、豊後水道を航行していた時です。加賀艦長の岡田次作(じさく)大佐が全員に「ただ今より、本土に別れを告げる」と言われました。その後、単冠湾到着翌日の11月24日、空母「赤城」の作戦室で、真珠湾と初めて知らされました。
門田 どういう思いだったのですか。
前田 標的と言われたウェストバージニアは太平洋艦隊の旗艦です。生きて帰れるとは思っていませんでしたから私には名誉でした。
門田 実際の攻撃はどうでしたか。
前田 そりゃ人間ですから、自分たちの魚雷が命中した瞬間、思わず声が出た。空母・加賀に帰還した時、無事任務が終わった安堵(あんど)と生きて帰れた、何ともいえない感慨がこみ上げましたよ。
ところで私達は午前8時前の攻撃を禁じられていました。外務省が宣戦布告する時間まで待って攻撃したのです。が、肝心の外務省がそれをしていなかった。戦後、真珠湾はだまし討ちだと耳にするたびに悔しい思いを味わいましたねえ。それは今でも変わらないです。
≪痛恨のミッドウェー≫
門田 お二人はミッドウェーの戦いにも臨んでますね。
原田 昭和17年6月5日朝、上空哨戒(しょうかい)から着艦した時、敵の雷撃機が来襲してきた。すぐに迎撃し、次々撃ち落としました。激しい戦いでしたが、雷撃機をほぼ全滅させたのです。
ところが、急降下爆撃機のドーントレスが背後に迫っていることに気づかなかった。それで甚大な被害を受けてしまった。こっちは目前の敵に必死でしょう。全体を見て艦から統率して指示を出すシステムがなかった。全ての狂いはここから始まっている。
前田 索敵(さくてき)の怠慢以外の何物でもない。巡洋艦から出た海軍兵学校出の大尉の一号偵察機が発艦から1時間後、ドーントレスに遭遇して撃ち合いをしていたのです。当然、先には敵空母がいる。なのに、大尉はこれを報告せず、雲の上を飛んで、空母も発見しなかった。致命的なミスでした。ところが、責任は利根から発艦した索敵機のせいにされた。
発艦が遅れた索敵機は敵空母を発見してそれを報告したが、これが「発見が遅れた」と敗北の責任を背負わされてしまったのです。こちらは、海兵出ではなく、予科練の甲飛二期の機長だったからでしょう。終戦後、この機長の墓参りに行った時、彼の墓石に刻まれた名前が削り取られていました。何とも哀れで、一方、本当のミスをした大尉は不問に付され、戦後も自衛隊で出世を遂げたのです。
≪瀕死の負傷のなかで≫
門田 着艦すべき空母が次々やられ、原田さんは海に不時着水したのですか。
原田 空母がやられても、まだ巡洋艦や駆逐艦が残っているので、私も上空哨戒を続行し、必死で戦いました。こっちで飛んでいるのは私だけで、燃料が切れるまで飛び、駆逐艦脇の海面に着水したのですが、そこを敵機に攻撃され、救助の駆逐艦が逃げてしまった。
門田 救助されたのはいつだったのですか。
原田 なかなか来てくれなかった。フカは自分より大きなものはかじらないというから、首のマフラーを足に縛り付けてみた。もうダメと思って家内や子供のことが思い浮かびました。でも、それを過ぎて、もう死ぬしかない、と思いました。マフラーも外したが、今度はフカがなかなか来ない。そのうち静かで穏やかな気持ちになっていくのです。やるだけやった。もういい、という諦めですね。
門田 諦めですか。
原田 実は私は飛行機に乗るまでとても臆病で死が怖かった。死に直面した時の苦しみを何とか取り除けないかと高僧に意見を求めたこともあった。
そのとき「あれこれ悩んでもつまらない。死ぬとき誰でも多少の苦しみはある。でも、いよいよその時には案外穏やかになれる。諦めがあれば、人間は静かに穏やかに死ねる。だから兵隊さん、心配はいらない」と言われたのです。その言葉の意味がその時、わかったような気がしたのです。
前田 加賀の艦上にいた私もドーントレスの爆撃で左の膝の上をえぐられる負傷を負いました。足が吹っ飛んだ感じでした。救助を受けるためにいったん海に落とされ、海から駆逐艦に移ろうとした。でも敵の攻撃でできない。私もただ海を漂うだけでした。手ぬぐいで傷をしっかり縛って止血したのが幸いして3時間後に引き上げられ、命は取り留めました。
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